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zoom RSS ちょっと脇道・・・戦国三傑自筆書状

<<   作成日時 : 2011/06/21 19:37   >>

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【 織田信長殿 】
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織田信長(一五三四〜八二)が長岡与一郎(細川忠興)に与えた自筆の感状である。天正五年(一五七七)八月、松永久秀・久通父子が信長に反旗を翻した時、その党である森秀光、海老名勝正らが大和片岡城に拠って信長に抗したが、惟任光秀、長岡藤孝らの攻撃をうけて十月一日片岡城は落城した。この時、藤孝の嫡男与一郎(一五六三〜一六四五)は、当時十五歳にして、弟の頓五郎(昌興)とともに片岡城に一番乗りの功名を立てた。このことは『信長公記』の同日条にも「両人之働無比類之旨被成御感、忝も信長公御感状被成下後代之面目也」とみえている。
 十月二日付の信長の書状は、与一郎の折紙の報告に対し、その軍功を賞したもので、本文は「おりかみ披見候、いよいよ働候事候、無油断馳走候へく候、かしく」と極めて簡潔であるが、信長の人柄を偲ばせるところがある。また、附として堀秀政副状は、信長の馬廻り衆の堀秀政(一五五三〜九〇)が、この感状が信長の自筆であることを証明したものである。
 信長の書状は「天下布武」の印を捺したものなど、あわせて千百二十二通を数えるが、それらのほとんどは右筆の手になり、信長自筆と伝えるのはわずか十数通のみである。本書状は、細川家に伝来した最も確かな信長自筆書状として注目される。 (文化庁・国指定文化財等データベースhttp://www.bunka.go.jp/bsys/
http://www.weblio.jp/content/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E8%87%AA%E7%AD%86%E6%9B%B8%E7%8A%B6より)

【 豊臣秀吉殿 】
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(ネットより)書状の現代訳
先日は普請場まで見送ってくれて、うれしかったです。しかし、人が多くて口を思いのままに吸う(キスする)ことが出来なかったのが、今も心残りで忘れられません。まんかか(秀吉の正室の北政所)へも、伝言を確かに届けました。近々、そちらへ行って、口を吸いますよ。「大いとこ」(台所か)の表には絶対に出てはいけません。馬を見たければ、そちらへ引き寄せてご覧なさい。(中略)
そなたのことが何でも見える鏡があって、見えていますよ。おかか(秀吉の側室の淀君)に口を吸われてはいけません。油断なさいますな。
9月26日
おひろい(秀頼の幼名)様へ
                  とと(秀吉)より
(後略)

【 徳川家康殿 】
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慶長十二年(一六〇七)三月十一日、駿府の家康から二代将軍秀忠に宛てた自筆書状である。松平忠吉(家康第四子、尾張清洲城主)の家老、小笠原和泉守吉次犬山から移封するに当たり、その実施方法を尋ねてきた秀忠に対し、家康が与えた返書である。二年前の慶長十年にすでに家康は将軍職を秀忠に譲ってはいるものの、実際には依然として家臣移封といった幕府政治の実権を掌握し続けていたと知られる。幕府揺籃期における家康の大御所政治の実体を示す、好個の資料である。
(文化遺産オンラインhttp://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=52435より)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
先日、この3人の
「筆跡」、「色」等からその人物性を解くような
番組をやっていました。

「筆跡」はそのままに
「色」については、甲冑などに用いた色とかですかね。

まあ、一般に抱かれているイメージに
比較的そういう結果になりましたが・・・

「筆跡」
信長は、リーダーシップをとる人に多き字らしく
秀吉は、上昇志向。
家康は、現代人でも読めるように書いている。つまりは
    型を崩さず(略さず)に書く。これは、当時、    略字では読めない者もいたらしくまた、誤った
    伝わり方を避ける為でもと・・・

秀吉か、家康か忘れましたが
ある文字の形が
経営の神様、松下幸之助にも通じているとか。
JIN
2011/06/22 09:22

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